『昭和元禄落語心中』の八雲と助六のモデルとなった落語家はいったい誰?

熱い落語シーンで注目を集めるドラマ『昭和元禄落語心中』

八雲や助六といった、魅力的なキャラクターも見どころの1つですよね。

この記事では、ドラマの中心人物で魅力あふれる八雲と助六のモデル、と噂される落語家さんを紹介していきます。

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ドラマ『昭和元禄落語心中』が面白い!あらすじを簡単に紹介!

【出典】https://www.nhk.or.jp/drama10/rakugo/

昭和初期、落語の世界に足を踏み入れた『菊比古』は『初太郎』と出会う。

同期入門の固い友情で結ばれる反面、落語の天才と称される初太郎は、菊比古にとって憧れと共に嫉妬の対象でもあった。

初太郎に追いつこうとあがき、芸者『みよ吉』支えられ、腕を磨いていく菊比古。

やがて菊比古は『八雲』、初太郎は『助六』と名を変え、助六とみよ吉は結ばれる。

順調そのものに見えたが、ある日、助六とみよ吉は謎の事故死を遂げてしまう。

その謎を胸に抱いたまま、二人の遺した一人娘『小夏』を引き取る八雲。

八雲を親の仇と呼び成長する小夏は、八雲に弟子入りした『与太郎』と共に、謎に満ちた両親の死の真相に迫る・・・

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ドラマ『昭和元禄落語心中』、8代目有楽亭八雲の人生とは?


芸者の家に生まれ、踊り子を目指していたが、足の怪我により断念。

七代目八雲に引き取られた。

当初は、落語に興味を持っていなかったものの、助六の落語に魅了され、追求することに。

助六とみよ吉が事故死した際の真相を知っている他、苦悩と葛藤に満ちた人生を送っているため、見た目に反して気むずかしく、複雑な内面を持つ。

「おまいさん」「アタシ」などの下町言葉を多用する。

幼少時に右足を負傷したため、杖を手放せない。

後に『昭和最後の大名人』と称される。

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八雲のモデルは一体誰なのか?三遊亭圓生?桂歌丸師匠?桂文楽?


非常に魅力的なキャラクターな八代目八雲。

モデルとなった落語家さんはいるのでしょうか?

候補となる落語家さんは3名。

美男子で女性ファンの多かった『六代目三遊亭圓生(さんゆうていえんしょう)さん』

下町言葉を多用する『桂歌丸(かつらうたまる)さん』

一言一句を徹底に練り、舞台に上がることに完成度を上げていく『桂文楽(かつらぶんらく)さん』らが八代目八雲との共通点が多く、有力であると言われています。

それでは、この3名について詳しく見ていきましょう。

八雲のモデルの一人、昭和の大名人6代目『三遊亭圓生』とは?


6代目三遊亭 圓生さんは、1900年(明治33年)9月3日生まれ。

1920年に5代目橘家圓好で真打昇進するも、一向に売れず、所属団体を次々と変える時期もあったそうです。

六代目三遊亭圓生を襲名したのは、1941年のこと。

満州での生活後、1947年に帰国すると、人気落語家の一員となります。

満州での苦労が芸に生き、自身の進む方向が見えてきたそうです。

正統派の落語を追求し、古典落語を崩さず演じたり、容姿端麗で女性ファンが多かったりと、八代目八雲との共通点がある落語家さんです。

八雲のモデルの一人、落語家『桂歌丸』師匠とは?


桂歌丸さんは、1936年(昭和11年)8月14日生まれ。

惜しくも慢性閉塞性肺疾患のため、今年7月2日に亡くなられました。

1954年、5代目古今亭今輔に入門し、古今亭今児を名乗り、1961年には、桂米坊に改名。

しかし、額のあたりが広くなってきた上に、周囲から子供っぽいと言われ、1964年、桂歌丸に再度改名しました。

その後はお馴染み、笑点のメンバーとして長きにわたり活躍し、2006年には5代目司会者に就任されました。

「アタシ」「おまえさん」といった下町言葉を多用する点が似ているので、モデルと言われています。

またドラマ化発表が、亡くなったタイミングだったため、桂歌丸さんを八代目八雲と重ねて、思い起こす方が増えたようです。

八雲のモデルの一人、8代目『桂文楽』とは?


桂文楽さんは、1892年(明治25年)11月3日生まれ。

自宅住所の旧町名から、『黒門町(くろもんちょう)』『黒門町の師匠』とも呼ばれました。

初代桂小南に弟子入り、桂小莚(かつらこえん)の芸名をもらい前座を務めました。

その後、1917年に翁家馬之助(おきなやうまのすけ)で真打昇進、1920年に8代目桂文楽を襲名しました。

持ちネタは少ないものの、一語一句を練りに練り上げ、完成度を高めるスタイルが八代目八雲と重なる、と言われています。

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ドラマ『昭和元禄落語心中』助六の人生とは?


親代わりだった初代助六から、毎日のように落語を聞かされていたため、入門の時点でいくつかの落語を噺せていた。

入門後も、落語に興味のなかった菊比古とは対照的に、落語漬けの毎日を送り『落語の天才』と呼ばれるほどの才能を見せつけ、菊比古にとっては憧れと嫉妬の入り混じる存在であった。

トラブルメーカーな一面もあるが、明るくおおらかな性格で、どこか憎めない。

芸者『みよ吉』と結ばれ、一人娘の『小夏』をもうけるものの、謎の事故死を遂げてしまう。

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助六のモデルは一体誰なのか?古今亭志ん朝?それとも古今亭志ん生?


破天荒、明るく豪快なキャラクターを持つ助六。

モデルと言われる落語家さんは、2人です。

まず1人目が、『三代目古今亭志ん朝(ここんていしんちょう)』さん。

落語家としては初めて高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことで知られ、豪快な一面が助六にそっくりです。

そして、2人目のモデルと言われるのが『五代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)』さん。

破天荒なエピソードが多く、助六とイメージが重なる落語家さんです。

助六のモデルの一人、3代目古今亭志ん朝とは?


三代目古今亭志ん朝さんは、1938年3月10日(昭和13年)生まれ。

入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進するなど、天才っぷりを見せるエピソードが助六と同じですね。

同業者からの評価も非常に高く、7代目立川談志からは「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と称されています。

高級外車を乗り回したり、豪邸を建てたりしたことでも知られていますが、当時の落語界ではありえなかったため、周囲からの風当たりは相当強かったようです。

こういった型破りなところも、助六と重なりますね。

助六のモデルの一人、5代目古今亭志ん生とは?


五代目古今亭志ん生さんは、1890年(明治23年)6月5日生まれ。

1907年頃に三遊亭盛朝を名乗りますが、まだこの段階ではセミプロであったようです。

1910年頃、2代目三遊亭小圓朝に入門。

1921年には、金原亭馬きんを名乗り、真打に昇進しています。

その後も幾度どなく改名を続け、世に知られる五代目古今亭志ん生を襲名したのは、1939年のことでした。

16回にも及んだ改名の理由はなんと、借金取りから逃れるためと言われています。

その他にも、酔っ払って高座で寝てしまった、関東大震災が発生時、もう酒が買えなくなると思い、酒屋に走っていったなど、破天荒でどこか憎めないエピソードが助六にそっくりですね。

まとめ

八代目八雲と助六のモデルと言われている落語家さんを紹介しました。

似ている落語家さんを探すのも、ドラマを見る楽しみかもしれませんね。

今後の登場人物も注目していきましょう。